眠れないから、最近のこと、つらつら。

俄然、七夕の夜の伸夫との逢瀬が楽しみすぎる。いちばんのオン期に休みをとったので、ちょっと前後のシフトがしんどいんで(仕方ない仕方ない)交通手段をまだ決めあぐねてるけども。今回のアルバムはちょっと、体育座りとかで静かに聴いてみたい曲が多くてですね、なるべく合唱厨が近くに来ませんよーに!と祈ってみたりする。とくに「SUSY」。いやこれほんとに綺麗な曲。伸夫は“か行”がとくに美しいからなー。あー、私いつまでもこのひとにぞっこんなわけですよーいつまでもいつまでも。抱かれたいし、罵倒されても構わないし、でも、“なりたい”とも思う、時々は。ほんとに不思議な存在。

3000円のバンドTシャツは、ほとんど惜しむ間もなく買えてしまう。けれど、普段の生活で着るべく服の関しては、Tシャツにせよスカートにせよ、「うーん3000円ねえ…2600円ぐらいでもっといいの他にあるよなあ…」と、相当長い時間悩む。これってなんだろ?て思ってたんだけど、自分の出費が自分のためだけにしかならない場合には、カチッとケチスイッチがはたらくということなんだよね。3000円で、大好きなバンドメンバーのTシャツを着られる嬉しさに、バンドメンバーの儲けに貢献したーっていうささやかな喜びもプラスされるから、3000円の価値が変わって感じられるんだろうね。
そういえば、自分オンリーの幸せのためには、私は確かにあんまりお金をつかえない。元々貧困だからってこともあるんだろうけど、誰かと一緒なら外食大歓迎だし、値段見ないで頼めるし、あとは新作の単行本も「買ったら貸して」と母親が言ってくるようなのは即買って即読むし(読むのが自分だけなら図書館でいいわけだし)。
こうゆうとき、つくづく私は、自分で言うほどには自分のことが大事じゃないなあと思う。固い意味ではなくて、なんというか、他者があっての私なんだな、と思う。主語にはなれない、助詞のような。それが苦だとも、欠点だとも思わないけど、え、欠点なのかしら?

寝るか。

あ、ちがうちがう、plentyのグッズがかわいすぎるーって言いたかったんだ。サイズが合いさえすれば、ふつーに普段着にできるぐらい。欲しい…かも…