冷血(上)

冷血(上)

「理屈ではない」「分からない」「何となく、っす」「それだけっす」という以上の言葉がほんとうにあるのかどうか。またさらに、仮にホシ二人にろくに言葉がなかった場合、自分たち警察はやっぱり二人とも常識の及ばない反社会的人格ということにして、辻褄を合わせることになるのだろうか。

いったい自分たち警察も検察も社会も、この被疑者たちに何を求めているのだろう。欲しいのは、彼らをともかく刑場に吊るすための理由ではないのだろうか。

警察としてやるべきことをやった時点で、自分たち刑事もまた一般市民として、不毛を前に立ちすくむのが正しいあり方ではないのか。否、むしろ立ちすくまなければならないのではないか。

そうして犯罪事実の残酷さだけが宙づりになり、関係者たちの言葉がその周りを埋めようとすればするほど、肝心の殺人者も、殺された一家四人の死者たちも、まるで透明人間だったかのように遠のいていったのだった。

ちょっと前にも、犯罪の動機に対しての捉え方、咀嚼の仕方を考えさせられる森博嗣作品を読んだばっかだよな。繋がるんだよなあ何故かこうゆうの。
「なぜ?なぜ? それを言うのが人間だよ」。森作品の中で特別に好きな一作の中で(と、またも森作品へと舞い戻る)、数々の疑問を思い付くままに並べる主人公に、ある老年の男が愉快そうに諭す科白。私はこの科白が堪らなく好きで、好きであると同時に「自分は“なぜ”よりも“なぜならば”を多く言葉に出せる人間になりたい」と思って生きてきた。疑問にぶつからない平坦な思考回路はもっての他でお話にもならないのだけれど、答えを導きだせない氷塊のような脳味噌も、犬の餌にもならない。
理由を、意味を、私は欲しがる。衝動なのだとしても、ならば確実に在るはずの衝動の発端を。他者の言葉や表情にいちいち惑わされてしまうのは、この過大な欲のせい。「なんで今笑ったの?」「なんでこんな絵文字使ってメール送ってくるの?」「なんで昨日は名前で呼んだのに、今日はお前っていうの?」。とめどない“なぜ”に乱されても結局、肝心の“なぜならば”を導きだせない。だって、他者の内面に、行動の背景に、推測以上の何で真実に迫ればいいのだ?
それならば逆に、言えるのか、私は。私も自分の行動のすべての“なぜならば”を明確に言葉に出来ないのではないのか?本人だけが真実を知っているはずだと、理由を逐一言葉にして欲しがるくせに?と気付いて、震えてしまった。つまりそういうことなのだ。「分からない」は、理由になる。「なんとなく」こそが唯一無二の真実の場合もある。それは俗に言う「言葉にできない」といったような適切な語彙を探し当てられないというのとも全く違う。他者の推論、とても深い深い推論であっても、真実にはなり得ない。あくまでただの、体のいい、こじつけでしかないんだ。
そうしてひとは、こじつけを経て、納得へたどり着く。そうして、知らない誰かを、裁く。

余談。合田が年をとった。内省のひと、観念のひと、その印象がぐんっと濃くなる。なにより、なぜかの、早朝の野菜栽培。義兄そっちのけ。そして、このひとは、刑事向いてないんじゃないか?自ら取り調べをしたわけではない(部下が取り調べをした録音を聞いて苦悩する主人公、って構造は面白いなと思う)犯人に対して、入れ込み過ぎます。葉書出したりお見舞いに行ったり私物の文庫本贈ったり。こんな警察でいいのか。