3.11の新聞を丁寧に丁寧に読んだ。まだあんなに行方不明の方がいることに驚く。この1年、特に近しいひとが被災したわけでもないのに努めて現状を知ろうとしなかったのは、惨状の痛ましさを安全な高台から直視する勇気がなかったこともあるけれど、やはりあまりの“死”の濃さに向き合える精神状態じゃなかったことが大きい。じゃあ今、向き合えるのか、覚悟が出来たのか、と問われると肯定で頷くことは出来ないけれど、知らないままよりは知っている方が良いに決まっているという結論。目をそらすにしても、向き合うにしても。…と、超私的な思いを投影してしまっている。某紙の、亡くなった方への家族や親友からのメッセージを掲載した特集は、元々緩い涙腺がばかになって大変だった。印象深かったのが、1年経って死を受け入れられているひともいて、「どうか安らかに」と言えている一方で、「私が代わってあげたかった」などと立ち直れずに自分を責めてしまうひともいること。そのひととの関係性とか、きっと遺体の状態とかも影響あるんだろうけど、ほんとに、時間って平等じゃないんだと感じた。流れない時間もこんなにあるのだ、と。前を向いて
いるひとが強いとか、まだ塞ぎこんでいるひとが弱いとか、そういう単純な問題でもないと思うし、どちらにしろ相当苦しいのだろう、遺されたひとは。この、「遺された」という言い回しこそが、それでも生きていかねばならないひとたちの辛さを表しているように思うよ。

しかし、春がもうすぐそこで、きらきらの季節に向かっているはずの私の心模様はやはり晩年厳冬。打ち込みたい、何かに。いえ、何かなんてはぐらかしません、仕事です。仕事に打ち込みたいのです。情熱ささげて向上したいと思える仕事がしたい。目標もなく、とりあえず次の給料日までの日数と残額を数えて生きてることがもう虚しくて仕方ない。打開策は見えてる。異動願。現状鑑みるに、今(新年度目前)は叶えられそうにないけれどアピールはさりげなく繰り返しておこうと思う。私は恋愛に関しても未練引きずるタイプだけど、今回異動願取り下げられたら、「それでもいつかは」なんて夢をみることなくあっさり転職するつもり。会社自体は好きなのだよ。でも、居心地いいからってなあなあだらだらの非建設的な働き方して、鬱憤たまって脳味噌衰えてしまっては意味がない。とにかく今は、仕事を頑張る自分、になりたい。

徒然。